言葉の意味
バクティヨーガについてお話ししましょう。
このような神聖な言葉は多くの意味を含んでいます。
ですから
一言に信愛といっても、もともとの
意味するところを推察していくことが大事です。
これはヨーガの他の言葉にも言えることです。
ヤマ・ニヤマもそうですね。アヒンサー=非暴力
なるほど❗
と頭でわかっても、行動に結び付かないのであれば
それは理解したと言えるでしょうか?
ブラフマチャリヤ=純潔
なるほど❗
そう納得しても
言うは易し行うは難し
というのが現実ですよね。
このように
ヨーガでは一つ一つの言葉を
学ぶことが瞑想につながります。
理解することは行動すること
日本人は道という言葉が大好きではないでしょうか?
茶道 華道 柔道 剣道 香道などなど
形式から入り
そしてなにかを極める
というのが日本人の性にあっているような気がします。
しかし
現代のようなスピードと情報化の社会では
この日本古来のありかたが
頭でっかちな行動の伴わない現実を
生み出しているとは言えないでしょうか?
嘘を言ってはいけません❗=サティア
と子供の頃から言われますが
今の社会ではむしろ正直者は馬鹿をみる
と言っていいような現状にあります。
もともと日本人の精神はわびさびの文化にある
と言われてます。
日本人特有の美を形成しました。
さび では古きの中にたらしさを求める
老い、枯れへの静寂への心のありようを
日本人の心に根づかせたのです。
文明化された社会、西洋化された今となっては
石に生えた苔に美を感じるというのは
京都などの観光化された寺や庭園でしか
みられない光景となりました。
インターネットでは
商業化された言葉が並び
ヨーガの用語もなんとなくそれらしく解説されています。
しかし
皆さんにお勧めするのは
それらの用語を頭で「ふむふむ、なるほど」
と納得するのではなく。
それらの言葉やイメージを
黙って見つめることです。
例えば愛という言葉を知ろうと思うならば
自分がこの言葉から感じるイメージを
目をつぶって静かなところで思い浮かべるのです。
お母さんが子供を抱いている風景でもいいですし
自分がお子さんに抱いている感情
父から受けた優しい言葉
友人に対する思い
誰かが身を呈して命をかけて人を守った実例
など
このようにして
イメージから愛とは何だろうか
というものをイメージの力で体験していきます。
そのようにして、初めて心の中に
愛という種が育まれていきます。
これが瞑想なのです。
瞑想とは心を超えた魂の世界と
繋がる=ユジュ
というヨーガの目的です。
心はいつも様々なエネルギーによって
乱されていますよね。
怒りや悲しみ、後悔や羨望、貪欲や憧れ、
愛や希望、喜びなどの良い感情もあります。
そこに様々な知覚、快不快、痛みや感覚
それらを、見つめ
真の自分のありようを知ることも
ヴィパッサナー(マインドフルネス)で説かれる瞑想です。
このような、いわば動と静と言われる2種類の瞑想があります。
どちらも大事なのです。
サマタ瞑想もサティ瞑想もどちらも心の静養には必要です。
なぜならば、体が食べ物を消化して生きているように
心も考えや感情、そして印象を消化して生きているからです。
ここのところは前々回のパンチャ・コーシャ
のテーマと重なるところです。
信愛を育てる
この信愛こそが
ヨーガの最も大事な基礎です。
キリスト教でも
対神徳と言われ信仰、希望、愛は三元徳と教えられています。
心愛=バクティ
は人生に生命を注ぐ最も必要とされるサーダナ(霊性修行)なのです。
インドではこの信愛の象徴としてハヌマーンが有名です。
ラーマヤーナというインドの叙事詩の中で
常にラーマへの忠義を果たし
魔王ラーヴァナによってランカー島に連れ去られた
ラーマの妻シータを取り戻すためランカー島へ飛びます。
ランカー島は今のスリランカ(セイロン島)ですね。
ランカー島に潜入して一度捕虜となったハヌマーンは
その長い尻尾に火をつけられますが
これを振り回して暴れたため、島中を火の海にします。
ハヌマーンは自分の体の大きさを自由自在に変化させることもできます。
ラーマの弟ラクシュマナが怪我を負ったときは
ヒマラヤのカイラーサ山に飛行して薬草を探しますが
なかなか見つけられず、業を煮やしたハヌマーンは
その怪力を使って山ごと引っこ抜き、ラクシュマナのもとへと運びました
ラーマへの忠誠を問われたハヌマーンは
自らの胸を切り裂き、中のラーマとシータの像を示した
と言われています。
何だか・・・・
ものすごい話ですね笑
ハヌマーンとその猿の部族が
ランカー島への橋を作ったという話がありますが
これが
アダムスブリッジと言われるものではないかと言われてます。
ホンマか!?
というくらいスケールが大きいですね。
ここで重要なのは
これらの神話やエピソードは
全て瞑想によって心を育むためにあるのです。
本当にあったかどうかは(あったらすごいですけど)
別な話なのです。
これは聖書やプラーナ(神聖な物語)
バガヴァッドギーターなども同じです。
ぜひ
瞑想という形にとらわれないで
これらの本を手にとって
一ページずつ味わうように読んでみてくださいね。
クリヤヨガ とか伝統ヨーガとか
の形にとらわれず
インド、ヴェーダの世界を楽しんでください。
そして、その楽しむことが様々な神秘への近道なのです。
その神秘とは
人を好きになること
朝、目が覚めて太陽の光に喜びを感じること
そして
ただ人や物事を愛せるようになれることです。
OM
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