主の生涯におけるこの偉大なる出来事は、
3つの啓発する最高の教えを与えるだけではなく、
主ご自身の模範によって、
霊的な力が、道の障害となり得るのだと、
真の求道者は捉えるべきだと警告し、
仮に霊的力が、お恵みにより彼のもとにやってきたとしても、
彼は自分の利己的な目的のために、
利用しようなどと夢にも考えるべきではありません。
命が危険にさらされていた時でさえ、
奇跡的な力を使おうとはしませんでした。
主が旅の途中に行おこなったあらゆる奇跡は、
すべての存在に対する愛と慈悲にあふれた、
無上の憐れみによって、
心の底から駆り立てられておこなったものです。
主は病人を癒し、死者を蘇らせることさえしました。
しかし、彼が本当にしたのは、
癒した人から悪魔を追い出すことでした。
彼らの過去の邪悪な行為と隠れた邪悪な傾向は、
身体的、精神的な病気の形を取っていました。
イエスは失われた魂を取り戻し、
彼らに本来の純粋さを回復させました:
主の慈悲と許しによって人々は主のものとなったのです。
彼の存在の輝きは、
人々に神への大きな信仰を持たせただけではなく、
主イエスに従い、
彼の教えのとおりに新しい神聖な人生に導かれたいという、
まことの熱情を持たせたのです。
この信仰と真の悔い改めは、
ただちに完全な自己変容へと身を結びましたが、それは
主イエス・キリストの哀れみに満ちた癒しの恩寵なのです。
イエスの奇跡の霊的な側面
イエスは孤独と厳粛な生活を終えると、
彼を慕う人々に知恵を授けたいと願い故郷の村に戻りました。
洗礼者ヨハネは、
心を入れ替えて、罪を深く悔いることを呼びかけていました。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
(マルコ福音書一・14~15)
イエスもまた、
このメッセージを繰り返し述べ始めました。
ヨハネは神を厳しい裁くものとして描いていましたが、
それとは違って、主イエスは、
罪人を愛し救う、慈しみ深い全能の父として説きました。
主イエスにとっては、神への信仰とは、
宗教的儀式や儀礼よりも、祈りにおける熱心さ、倫理的規律が、
はるかに重きをおくものだったのです。
このような考えこそ、圧迫され抑圧されていた人々や、
教会によって破門された人々に友として迎えられた理由です。
イエスは彼らすべてを歓迎し、
彼らの罪を赦し、彼らを祝福しました。
「重荷を背負い苦労している人は皆私のもとにきなさい。
あなたがたを休ませてあげよう」と主は言いました。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、
わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、
あなたがたもわたしのくびきを負って、
わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
(マタイ11:28〜30)
そして、何千人もの人々が、
主を探し求めて、平和と慰めを彼の足元に見つけました。
主によって選ばれた12人の弟子のうちの1人は、
正統派のユダヤ教徒によって排斥され、
軽蔑されていた、収税吏でした。
そして、信者の中で最も偉大で、かつイエスの側近だったのは、
罪深き女と言われ、イエスによって七つの悪魔を追い出された、
マグダラ・マリアでした。
ある日のこと、
主イエス・キリストが通り過ぎようとしていたところ、
姦通の罪で告発され、「石打ちの死の刑」を宣告された、
女性の周りに群衆が集まっていました。
今まさに群衆がこの刑を執行しようとしていたとき、
主イエスが現場にやって来たのです。
イエスの持つ磁気的な神聖な人格を本能的に感じ、
イエスの命令に従い、人々は残酷な行いを思いとどまりました
女のおかした”許されざる”罪の話を聞いたあと、
主は静かに言いました
「あなたの中で罪をおかしたことのない者が、
彼女に向けて最初に石を投げつけよ」と。
主によって発せられたこの強烈な言葉によって、
人々はお互いを見つめ、自分自身への内省を促されました。
一体、罪のない人がいるのでしょうか?
内省によって人々は自身の欠点をあらわにされました。
ひとりひとり、人々はこうべを下げて場所を去っていきました。
主イエス・キリストは、
「彼らはどこにいるのか?」と女に尋ねました。
「どこにもいません。主よ」彼女は答えました。
「あなたに刑を下すものはいなかったのか?
「いませんでした、私の主よ」と彼女は言いました。
すると、主は、
「わたしもそなたを罰しない。さあ汝の道を行くがよい。
もう罪をおかしてはならない」と言ったのです。
この美しい出来事が、
主の聖なるメッセージの本質を要約しています。
また別の時に、
信者が、イエス・キリストの足を涙で濡らし、
髪で拭きながら貴重な香油を塗ると、主は彼女を祝福し、
彼女のすべての罪を許しました。
このことが、
罪の許しを与える彼の権利に、
疑問を抱いた人々を怒らせたのです。
さて、イエスがベタニヤでらい病人シモンの家におられた時、
ひとりの女が、
高価な香油が入れてある石膏の壺を持ってきて、
イエスに近寄り、
食事の席に着いておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、
『何のためにこんな無駄使いをするのか。
それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに
イエスはそれを聞いて彼らに言われた
『なぜ、女を困らせるのか。
私によい事をしてくれたのだ。
貧しい人たちはいつもあなた方と一緒にいるが、
私はいつも一緒にいるわけではない。
この女が私のからだに香油を注いだのは、
私の葬りの用意をするためである。
よく聞きなさい。
全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、
この女のした事も記念として語られるであろう』
マタイ26章6~13節
主の平安が皆様と共に
Om Shantih
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