イエスの生涯と教え  新連載 4 神の国は近づいた

 

 

 

 

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主の生涯におけるこの偉大なる出来事は、

3つの啓発する最高の教えを与えるだけではなく、

主ご自身の模範によって、

霊的な力が、道の障害となり得るのだと、

真の求道者は捉えるべきだと警告し、

仮に霊的力が、お恵みにより彼のもとにやってきたとしても、

彼は自分の利己的な目的のために、

利用しようなどと夢にも考えるべきではありません。

 

命が危険にさらされていた時でさえ、

主イエスキリストは磔刑を妨げるために、

奇跡的な力を使おうとはしませんでした。

 

 

主が旅の途中に行おこなったあらゆる奇跡は、

すべての存在に対する愛と慈悲にあふれた、

無上の憐れみによって、

心の底から駆り立てられておこなったものです。

主は病人を癒し、死者を蘇らせることさえしました。

しかし、彼が本当にしたのは、

癒した人から悪魔を追い出すことでした。

彼らの過去の邪悪な行為と隠れた邪悪な傾向は、

身体的、精神的な病気の形を取っていました。

エスは失われた魂を取り戻し、

彼らに本来の純粋さを回復させました:

主の慈悲と許しによって人々は主のものとなったのです。

彼の存在の輝きは、

人々に神への大きな信仰を持たせただけではなく、

主イエスに従い、

彼の教えのとおりに新しい神聖な人生に導かれたいという、

まことの熱情を持たせたのです。

この信仰と真の悔い改めは、

ただちに完全な自己変容へと身を結びましたが、それは

イエス・キリストの哀れみに満ちた癒しの恩寵なのです。

 

 

エスの奇跡の霊的な側面

エスは孤独と厳粛な生活を終えると、

彼を慕う人々に知恵を授けたいと願い故郷の村に戻りました。

洗礼者ヨハネは、

神の国が近づいたのだから、神の国に入れるように、

心を入れ替えて、罪を深く悔いることを呼びかけていました。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」

(マルコ福音書一・14~15)

エスもまた、

このメッセージを繰り返し述べ始めました。

ヨハネは神を厳しい裁くものとして描いていましたが、

それとは違って、主イエスは、

罪人を愛し救う、慈しみ深い全能の父として説きました。

主イエスにとっては、神への信仰とは、

宗教的儀式や儀礼よりも、祈りにおける熱心さ、倫理的規律が、

はるかに重きをおくものだったのです。

このような考えこそ、圧迫され抑圧されていた人々や、

教会によって破門された人々に友として迎えられた理由です。

 

 

エスは彼らすべてを歓迎し、

彼らの罪を赦し、彼らを祝福しました。

「重荷を背負い苦労している人は皆私のもとにきなさい。

あなたがたを休ませてあげよう」と主は言いました。

 

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、

わたしのところに来なさい。

わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心優しく、へりくだっているから、

あなたがたもわたしのくびきを負って、

わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

(マタイ11:28〜30)

そして、何千人もの人々が、

主を探し求めて、平和と慰めを彼の足元に見つけました。

主によって選ばれた12人の弟子のうちの1人は、

正統派のユダヤ教徒によって排斥され、

軽蔑されていた、収税吏でした。

そして、信者の中で最も偉大で、かつイエスの側近だったのは、

罪深き女と言われ、イエスによって七つの悪魔を追い出された、

マグダラ・マリアでした。

 

 

ある日のこと、

イエス・キリストが通り過ぎようとしていたところ、

姦通の罪で告発され、「石打ちの死の刑」を宣告された、

女性の周りに群衆が集まっていました。

今まさに群衆がこの刑を執行しようとしていたとき、

主イエスが現場にやって来たのです。

エスの持つ磁気的な神聖な人格を本能的に感じ、

エスの命令に従い、人々は残酷な行いを思いとどまりました

女のおかした”許されざる”罪の話を聞いたあと、

主は静かに言いました

「あなたの中で罪をおかしたことのない者が、

彼女に向けて最初に石を投げつけよ」と。

主によって発せられたこの強烈な言葉によって、

人々はお互いを見つめ、自分自身への内省を促されました。

一体、罪のない人がいるのでしょうか?

内省によって人々は自身の欠点をあらわにされました。

ひとりひとり、人々はこうべを下げて場所を去っていきました。

 

 

イエス・キリストは、

「彼らはどこにいるのか?」と女に尋ねました。

「どこにもいません。主よ」彼女は答えました。

「あなたに刑を下すものはいなかったのか?

「いませんでした、私の主よ」と彼女は言いました。

すると、主は、

「わたしもそなたを罰しない。さあ汝の道を行くがよい。

もう罪をおかしてはならない」と言ったのです。

この美しい出来事が、

主の聖なるメッセージの本質を要約しています。

 

また別の時に、

信者が、イエス・キリストの足を涙で濡らし、

髪で拭きながら貴重な香油を塗ると、主は彼女を祝福し、

彼女のすべての罪を許しました。

このことが、

罪の許しを与える彼の権利に、

疑問を抱いた人々を怒らせたのです。

 

 

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さて、イエスがベタニヤでらい病人シモンの家におられた時、

ひとりの女が、

高価な香油が入れてある石膏の壺を持ってきて、

エスに近寄り、

食事の席に着いておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。

すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、

『何のためにこんな無駄使いをするのか。

それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに

エスはそれを聞いて彼らに言われた

『なぜ、女を困らせるのか。

私によい事をしてくれたのだ。

貧しい人たちはいつもあなた方と一緒にいるが、

私はいつも一緒にいるわけではない。

この女が私のからだに香油を注いだのは、

私の葬りの用意をするためである。

よく聞きなさい。

全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、

この女のした事も記念として語られるであろう』

マタイ26章6~13節

 

主の平安が皆様と共に

 

Om Shantih

 

 

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