今回は「暗夜」という重要なテーマのため
翻訳を繰り返し読み返し 校正を繰り返ししていたため
記事の更新に大変な時間がかかって しまいました。
申し訳ありません。
エゴの死 そして その過程で訪れる
感覚の無味乾燥な味わい
自我の死
これらについては 16世紀のカトリックの聖者
十字架の聖ヨハネが「カルメル山登攀」「暗夜」
などの著作の中で 詳しく述べられています。
イエスの生涯の著作のなかで納められている
スワミ チダーナンダやスワミ クリシュナナンダが
解説しているのは まさにこのテーマについてです。
あまりにも深遠な内容ですが
ヨーガの真髄について語っているのです。
どうぞ 繰り返しお読みください。
OM
霊的修行者の鏡・キリスト
スワミ・クリシュナナンダ
イエス・キリスト、世の光、最高のロゴス(神の言葉)は、
比類ない鏡、模範として、犠牲、愛、知恵、
真実を実現する為に人類の前に姿を現しました。
人としてのイエス様は、
サダカ(霊性修行者)や霊的な道への参入者にとって、
霊的な人生、内的な生命の技巧を反映しています。
キリスト、人の子は人類の生命と声の長であり、
いわば人の要、本質的実体が姿形をとったものの総計、
神の子、宇宙の君主の輝きが化身した存在なのです。
霊の結晶化であり、神秘的なキリストと呼ばれる光は、
闇から世を救うために生まれました。
この「世の闇」とは外的な現象ではないため、
「闇を取り除く者」とは物質的人格を意味していません。
偉大なる人々は外見では見分けがつきません。
偉大なる人物と、物質的な姿形には関係がありません。
立ち振る舞い、行い、性格、言葉、思い、
想いと意識の表現など、あらゆる面から、
偉大な人は見分けることができるのです。
偉人の存在は、これらの特別な特性から、
推し量られ、ダイレクトに認識できます。
素晴らしい霊のオーシャン、全存在の心臓に住まう方、
全ての人の瞳に瞬く光におわす大いなる神、
それらを理解している者こそ偉大です。
キリストの内に偉大な霊的人物と、
彼の生涯のドラマにアディヤートミカ・サダナ、
(最高霊の霊的修行)が描かれています。
キリストは降誕から昇天に至るまでの間に、
神の壮麗さを世に示し、
この地上に神の栄光を証ししました。
霊の幼子がお生まれになる時、
闇の帝国の支配者は幼子を抹殺しようとするので、
大変な思いをしても、子をお守りしなければなりません。
子が成長するならば、子それ自身がご自分を世話するでしょう。
各々の人が、霊的な幼子の親であり、
幼子が生まれた国の王、つまりエゴ(自我)の猛襲から、
幼子自身に身を守らせなければならないのです。
霊的意識が漸進的なステップによって出現しようとすると、
非霊的な力の反乱は、自然であり避けられないものです。
火にギー(バターオイル)を注ぐと、ギーは燃え上がりますが、
さらに、燃えさかる炎の上に大量のギーをさらに注ぐと、
炎の勢いは消されるでしょう。
しかし、やがて炎が大きく勢いづけば、
どれほど大量のギーでも燃やし尽くされるのです。
それと同じように、霊的な炎の煌めきも、
その火が幼子の段階では、世俗的な傾向に圧倒されていますが、
霊的意識の火が燃えさかると、
全ての世俗性と悪を燃やし尽くすのです。
いわゆる神秘主義の用語で「魂の暗い夜」と呼ばれるものは、
無知の暗闇の中で、意識の息が詰まりくすぶっている段階です。
スリ・クリシュナの誕生は、この事柄について関係し、
同様の事実を指し示しています。
また、バカヴァッドギータの最初の章では、
高みを目指す魂がこのような状況の中で、
落胆する様が克明に描かれているのです。
(アルジェナが弓を投げ出して戦意を失う様のこと 訳注)
肉の衣(鞘 コーシャ)から自由になり始めた、
生まれたばかりの未完成な霊の仕事とは、
なんとかして外なる性質(エゴ)の攻撃から身を守ることです。
高位次元へと上昇すれば、さらなる問題が起こるでしょう。
肉の欲という粗悪な性質の森を抜け出ることは、
大変な困難であることは間違いありません。
しかし、さらに困難で危険なのは、
外へとむかう宇宙的活動の枢軸である、
捉えがたい力、脈打つ精神的資質を克服する試みです。
精神的資質(エゴ)の目を眩ませるに十分な光を、
霊魂が放つ時、この力は反乱をおこすのです。
しかし今や、この低い資質の反乱など取るに足りません。
なぜならば、
経験と霊的知識からくる驚くほどのパワーが魂に啓示され、
肉の欲と低い資質の働きは磔にされるからです。
(人の内在するプラーナは常に外へ、下へ流れる。
この力が人を世俗的にする。
この流れを逆向きに変えるのが、プラティヤハーラである。
クリヤヨーガの科学を説明している。訳注)
利己主義の衣は投げ捨てられ、
荒れ狂う情欲の性質は罰せられ、
人の子は、神の子としての権利を行使して、
再び神の王国に入ります。
キリストをとおして、
インドの「ジーヴァンムクタ」を理解できます。
(ジーヴァンムクタ 生前解脱を遂げた人 訳注)
昼間に冷たい水の中に腰まで浸かると、
寒さと暑さを同時に感じることでしょう。
そのように啓発を得た賢者は、肉体に宿り地上で活動しますが、
足を地につけたまま、頭とハートは天国にとどまり、
問題を抱えながらも至福を味わうのです。
イエス様がこの世にこられたのは、
人生の目的とは、「何かを成し遂げる」ことではなく、
「何になるか」ということであることを、
人々が経験を通して知り、理解するためなのです。
私たちが注意力をもって行うべきことは、
間違った行動を改めるよりも、
間違った行動の原因と根源である、
私たちの内にある本質的な欠陥を改めることです。
新たに生まれない限り、人間には何の希望もありません。
まったく違う者になること、自分の本性を変えること、
比類の無い霊的経験へと参入することは、
いわば肉欲の生命に死に、
高次の意識に生きることを意味しているのです。
キリストの教えを実行する者が経験する意識についてであり、
これこそが人の究極の安らぎであります。
現在のところ、狭い聖櫃(意識 訳注)の中には、
あらゆる腐敗と苦しみが閉じ込められています。
厳格な儀式と律法への服従は霊的に初歩の段階であり、
栄光ある神の意識の内に完全な自由があります。
人は生まれながらにして宇宙の子供ですが、
再び生まれることで神の子となるのです。
セルフコントロールと禁欲主義は、内なる平和への道です。
世俗の悦びは、何の助けにもならず、
無益であり、人を悩ませ欺くだけです。
世を愛する者は父を愛することはありません。
霊的な知識を持つ生徒たちの間では、
キリストはアディカリベーダを意識して教えました。
特に灌頂(イニシエーション)を受けた人々、
内側の意識を喚起することができる人にはより高い知恵を伝え、
一方、外の事柄に囚われている人々には、
譬え話で教えていたのです。
「あなた方には、神の王国の神秘が与えられています。
しかし神秘を与えられていない人々には、
すべてのことは譬え話をもって教えているのです」
「主は聞く耳を持つ人々に、多くの事柄を譬え話で話され、
譬え話なしに教えることはなかった。
しかし弟子たちには、密かにすべてのことを詳しく説いた」
(マタイ福音書13章1-50節 参照 訳注)
(アディカリベーダ Adhikaribheda
Adhikari-bhedaの原理は、
ウパニシャッド、ブラフマスートラ、ギータの教えの基礎。
あえて訳するならば、直感的認識、直感的知識の総括。
例えば、知性と学問による知識だけでは、
アルジュナが戦士としての義務を果たすために、
アヒンサーに反して殺人を行なったことは理解できない。
また、頭だけで理解すると殺人を肯定することになる。
まさに魂で聞く能力が求められる。 訳注)
イエス様は弟子たちにはっきりとこう語っています。
「多くの教えを人々に伝えたかったが、
彼らは殆ど理解できなかったと」
実際のところ、より古い宗教の倫理的教えそのものなのです。
個としての直接的な死、
もしくは非存在(自我の消滅 訳注)とは、
これらすべての宗教によると、
豊かな人生を新たに始めるための条件です。
生に満ちた不死の海に溶け込むには、
まず死の杯を飲まなければなりません。
一般的に言って、
地上の誰もこの指示に従うための用意ができていません。
このことについては、聖書のある場面に描かれています。
(死の前日)主は死の杯が取り除かれることを願いました。
その時、主の目は開かれ、明確なビジョンを得たのです。
杯を拒否する想いは、霊魂を逼迫している低い資質の力でした。
そこでイエス様はこう言ったのです。
「(父の)御心のとおりにしてください」と。
この世俗的生活におけるストレスは、
霊魂の高貴で崇高なる高みにまで絡みつくために、
明白な敵意に直面しながら、自己のバランスを保つことは、
確かに途方もない務めです。
イエス様のような、ほんの少数の人々が、
絶えず深みへと沈思して、
霊的で超経験的な慰めなる意識を取り戻すのです。
イエス様の全生涯とは、
霊魂が目的地へ向かって歩んでいく物語であり、
それは意識が完全に開花していく様子を表しています。
人生とは惨めなものだと、
キリストは説教したのではありません。
所有しているもの全てを売り払い、
すべての持ち物に別れを告げることにより、
私たちの魂を空にすることができ、
さらには、聖なる黙想をとおして、
崇高なる霊を実現することを教えたのです。
神聖なるものを実現するためには、
見せかけの世界を拒絶することは必須条件です。
汚物が縁まで詰まっている容器に、
ネクター(不死の御神酒)を満たすことなどできません。
霊的生活とは、世俗的な意識を躊躇なく克服し、
超越意識もしくは神の意識へと自己を浸透させることです。
理想的な人生を望む学生や志願者は、
イエス様の行い、生涯や教えからインスピレーションを受け、
聖なる敬虔な人生、謙虚さと清貧のうちに生きるべきです。
貧しい人々の友となり、自分を愛するように隣人を愛し、
すべてを他者のために犠牲にするのです。
彼のために共に泣き耐え忍んであげなさい。
肉からくる欲と、その情熱を打ちのめして、
死ぬことにより永遠の生命に生まれるのです。
それは、あるようには見えるが、
実際には滅びゆく事柄への信仰を捨てることを意味し、
自分に関しては必要なものも、如何なることも憂うことなく、
神が時を超えた知恵でもって全てをお世話してくれるのだと、
万物の創造主の全能性を固く信じることです。
この新たに生まれた魂こそ、
賢者、リシ(聖賢)、ムクタ(解脱者)であり、
罪を贖われ神と一なった者です。
子(キリスト)と父(創造主)は一つです。
宇宙は美徳と知恵の素晴らしい花を咲かせると、
稀で熟した果実である聖人を生み出します。
そうして彼を人類の華として傑出させ、
彼は偉大なる父のために犠牲となります。
これが存在の完成です。
キリストの天国への昇天が意味することは、
神の意識を取り戻すことなのです。
キリストは、「天の国は私たちの内側にある」と教えた、
世に二つ無き霊的な先生であります。
主のその他の教えはすべてこの教えの解説です。
彼の教えは、
「私と天の父は1つです」
という声明に要約されます。
個なる魂は、最高の存在と一つなのです。
アヤムアートマ ブラフマ。
サルヴァム カールヴィダム ブラフマ。
ジーヴォ ブラフマイヴァ ナーアパラハ。
オーム タット サット。
オーム シャンティヒ
コメント
コメント一覧 (1件)
ブログを始められた頃に「個人的にはバクティーヨガとカルマヨガを実行していればいい」と仰っていましたが、そのカルマヨガに興味を持ちネットで調べましたが、マリア・ステファノさんの様な方が説明しているのではないので鵜呑みにして良いのかわからずにいます。今後こちらのブログで説明する予定がありますか。またカルマヨガに関してお勧めする本がありますか。
マリア・ステファノ