暑い日が続きます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。
本日はシヴァーナンダ 先生の高弟のシュリ スダルシャンによる
イエス様からの人類への約束についてお伝えします。
この世はあの世への橋だと、古今東西の聖者は口を揃えて話します。
「橋の上に家を建てるな」とも。
私たちの今世の旅は永遠なる存在への目的があることをどうぞお忘れなく。
それではリシの言葉をお聞きください。
イエス様の約束
シュリ・スダルシャン・シャルマ
「疲れた者、重荷を負う者は、
だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて上げよう。」
マタイ11章28節
「父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。
そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。」
(原文では36節だが新約聖書と照らし合わせて訂正 訳注)
これはイエス様からの招待状です。
皆さん宛の、親密でとても優しさに溢れた招待状です。
これは必ず守られる約束です。
天地は滅んでも、主の言葉は決して滅びることはありません。
なぜなら、この言葉はイエス様からだけではなく、
主を遣わした彼(神)からの約束でもあるからです。
主は自分の思いではなく、天の御父の意志のみを求めています。
不幸のために心の平安を失っている全ての人宛に、
主はこの招待状を送りました。
運命の荒々しい手によって、
残酷にも打ちひしがれている人々は皆、
希望と勇気、そして慰めを与えられるでしょう。
真に、イエス様は不幸せな者の為にこの地上にきたのです。
多くの人が、陽の輝く下にいながら、生きる意欲を失い、
すすり泣きとため息の中、苦しみに満ちた人生を生きています。
しかし、多くを失ったと考えるのは間違いです。
なぜなら、
それらを補って余りある大いなる希望が待っていますから。
皆さんは孤独ではないし、見捨てられてもいません。
皆さんのことを深く気にかけている方がいるではありませんか。
彼の望みは唯一つ、
未だ成就に達していない魂を完成させることです。
もし、皆さんが、
イエス様には救いの力があるのだと信じ、彼に付き従うのなら、
彼は道の途上のすべてのイバラを取り除き、
道を整えて真っ直ぐにしてくれるでしょう。
信仰を持つ者は誰も決して失われることはありません。
それに比べ、ああ!不信仰な者は何と悲しい定めでしょう!
イエス様は非難し、排斥するために来たのではなく、
人々を受け入れ救うために来たのです。
これが、理論哲学体系の提唱者としてではなく、
主が救い主として世に知られている理由です。
また、主が知性よりも愛に重きを置く理由もこれです。
人は知識の光によってのみでは生きることはできず、
親密な愛の暖かさを必要としていることを、主はご存知でした。
人は理解される必要があり、さらには、
災難からくる失意と悲しみから救われなければなりません。
人はどのような状態に陥ろうとも、
生きる望みを持ち、平和と幸福を望むものなのです。
イエス様はこのことを理解しており、
自身の命をかけて人々に道を示しました。
しかし、皆さんは時々このように思われるでしょう。
一体全体、何故この世に悪が存在し、
私たちを苦しめるのか?
私たちを救えるという存在がいるのなら、
どうしてこの地上から悪を消し去ってくれないのか?と。
何故、悪が存在するのかを誰も知りません。
悪が存在すべきか否かさえ理解できないのです。
それでも私たちは悪を克服することができ、
各々がその影響を最小限にでき、
そして他者が悪に打ち勝つのを助ける、
その方法を知っています。
悪というものは謎に包まれています。
悪は常に存在し続けるでしょう。
なんとなれば、悪とは実在に特有のものだからなのです。
このことについて、イエス様はこう語っておられます。
「つまずき(悪)が起こることは避けられない」
マタイ福音書18章7節
「あなたがたは世にあっては患難があります」
ここで重要なのは、悪が存在していても、
その悪を克服する方法があるということ、
そして、私たちのことを心の底から心配し、
助けてくれる方がいるということなのです。
これで十分ではありませんか。
道(方法)はイエス様の教えの中にあります。
この世を離れて、何処かにある神の国に加われと、
神は呼びかけてはいません。
そうではなく、いま、ここで、
善行によって王国を樹立するのです。
善行は善い動機に依拠します。
結局のところ、意識の変化という点でみれば、
神の国は再生によってもたらされます。
(再生:霊的に死に、神のうちに復活すること 訳注)
これは内なる見地を改めることなのです。
それ故にイエス様はこうおっしゃいました。
「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」
ルカの福音書17章21節
この内なる見地の変化は、
態度と行動の変容、という果実を結ぶことで、
明らかにされなければなりません。
神の国に入るには奉仕の精神が求められます。
競争ではなく協調性が求められるのです。
人というものは、単に外界の利益によってではなく、
内なる霊によって支配されるべきなのです。
そうすれば、人々の間に不義もなくなり、
苦しみに喘ぎ助けを求めることもなくなるでしょう。
このようにして、イザヤの預言が成就されます。
「彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、
多くの民のために仲裁に立たれる。
こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、
そのやりを打ちかえて、かまとし、
国は国にむかって、つるぎをあげず、
彼らはもはや戦いのことを学ばない」
(イザヤ書2章7節)
今世紀の人類が必要とするのは正にこの福音です。
繰り返される戦争、飢饉、疫病によって、
人々は幻滅し、心は荒れ果てています。
日々の暮らしの中で自分を見失わないために、
内なる信仰を求めています。
人生をより複雑なものにしてしまいました。
終わりのない争いと、果てしない無秩序は、
癒されることのない内なる傷を生み出しています。
残念ながら、人々の間には、
全ての悪の責任は科学のせいだと、考える傾向があります。
勿論これは間違いです。
科学を否定することで問題を解決できません。
咎めるべきものは外にではなく内にあります。
科学的見解を持たない人が優れていると言えますか?
そのような人々の立ち振る舞いは皆ひどいものです。
科学を排除することで、霊的に向上することはなく、
逆に私たちを著しく悪い状態にします。
人と事物に対する熟考的な姿勢がなければ、
結局は科学とは言えませんよね?
存在するに値する、つまり道徳的生活に重きを持つ、
そのような信念を目覚めさせるもの、
それこそ信仰であり、私たちが必要とするものです。
科学とは補うものであり、捨て去るべきものではありません。
科学と宗教とは矛盾するものではないからです。
信仰と道と生命を、イエス様の存在のうちに見つけられます。
それらを破壊するのではなく、
イエス様がしたように、私たちは成就しなければなりません。
自身の人生をしっかりと歩み、さらに豊かなものとするのです。
預かりし生命を守り通すことは全く良きことです。
生命を護り豊かにすることは、奉仕することと同じです。
奉仕するということは言うなれば、
自分の取り分を少なめにして、より多くを与えることです。
イエス様の十字架を引き受けて奉仕するすべての人は、
いつか呼び戻されて神の国を相続することになります。
「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、
かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、
牢獄にいたときに尋ねてくれたからである」
(マタイ)福音書25章35 36)
これこそ奉仕の鏡です。
時機にあった奉仕を、最善を尽くして行うことが求められます。
無駄にしている時間はありません。
イエス様は私たちに、たゆまなく働くことを促しています。
「わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、
昼の間にしなければならない。
夜が来る。すると、だれも働けなくなる」
働くこと(奉仕)を昼も「夜」も思い起こすのです。
(ここで言う夜とは、感覚の暗夜
感覚的な喜びを感じない状況でも奉仕する意味と思われる。
訳注)
あなたができる限りの事をするのです。
困難や不愉快なことを恐れないでください。
あなたがイエス様とその行いを思い起こすならば、
イエス様もまたあなたを思い起こし、
すぐに貴方を助けに来るでしょう。
イエス様の約束を心に留めて下さい。
「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。
あなたがたのところに帰って来る」
OMOMOM一切のものに平安あれ。
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