ようやく この「イエスの生涯と教え」が完訳できました。
思った以上の時間がかかりましたが、
やっと一仕事終わったと胸をなでおろしています。
これから出版作業に入ります。
この本に関してはペーパーでの出版を計画していましたので、
これから同時進行で書籍出版の作業にも入ります。
皆様大変お待たせして申し訳ありませんでした。
よろしくお願いいたします。
聖書の中で 最も大事なもの
スワミ・シヴァーナンダ
聖書の中でも、私のお気に入りは、
聖パウロによる「コリント人への第一の手紙」です。
以下にそれを引用して、
お気に入りの理由を述べたいと思います。
「コリント人への第一の手紙」13章
1節
たとい私が、人の異言や、御使の異言で話しても、
愛がないなら、
やかましいドラや、うるさいシンバルと同じです。
2節
また、たとい私が預言の賜物を持っており、
またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、
また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、
愛がないなら、何の値打ちもありません。
3節
また、たとい私が持っている物の全部を、
貧しい人たちに分け与え、
また、私の体を焼かれるために渡しても、
愛がなければ、何の役にも立ちません。
4節
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。
愛は自慢せず、高慢になりません。
5節
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、
怒らず、人のした悪を思わず、
6節
不正を喜ばずに真理を喜びます。
7節
すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、
すべてを耐え忍びます。
8節
愛は決して絶えることがありません。
預言の賜物ならばすたれます。
異言ならばやみます。
知識ならばすたれます。
9節
というのは、私たちの知っているところは一部分であり、
預言することも一部分だからです。
10節
完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。
11節
私が子どもであったときには、子どもとして話し、
子どもとして考え、子どもとして論じましたが、
大人になったときには、子どものことをやめました。
12節
今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、
その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。
今、私は一部分しか知りませんが、その時には、
私が完全に知られているのと同じように、
私も完全に知ることになります。
13節
こういうわけで、
いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
その中で一番すぐれているのは愛です。
私は聖書のこの文章をとても愛しています。
その理由は、この文章が詩的で美しいだけでなく、
まるで主イエス・キリストの本質を、
完全な絵に写し描いたように感じるからです。
また、この文章には主からの約束が込められています。
初めの文では、
何よりも、ただ一つ愛という霊的資質を帯びなければ、
他の霊的な資質などなんの役にも立たないと述べられています。
無我、自己の放棄、親愛、友愛、赦しの力、
憐れみ、そして純粋な愛情など、数えきれない美徳、
それらすべてを愛は補ってあまりあるものです。
愛ある人は、
すべてを耐え忍び、自慢せず、自分の利益を求めず、
正直であり、不変(貞節)であり、親切であり、
完全に純粋であれと述べられているのです。
そして終わりの文では、
主からの約束が与えられます。
それは、最後には主と「顔と顔とを合わせて見る」
ことになるだろう、というものです。
私がこの文章を読んでいる中で突出して、
心に最も惹かれた美徳は二つです。
それは優しさと純粋さ(清貧 心貧しいこと)です。
私はこれらの美徳に続いて、
不変(constancy 貞節)を加えたいと思います。
不変の愛(貞操なる愛)、
愛は決してしくじることはありません。
愛は優しさです。
愛するためには優しくなければなりません。
そうですとも、優しさはまさに愛の真髄なのです。
優しくあるためには、
憐れみ深く、赦す者にならなければなりません。
優しくあるためには、
誰の心も傷つけないように努めなさい。
優しくあるためには、
柔和で甘美な者となりなさい。
優しくあるためには、
思いやりがあり、同情心を持ちなさい。
そして、怠ることなく、
友が必要としている時にはすぐに手を差し伸べるのです。
優しくあるということは、おこない、はなし、考える、
という肯定的側面にとどまりません。
しばしば、おこなわない、いわない、考えない事なのです。
友人について耳にした非情な意見を本人に伝えないこと、
喉まで出かかっていても,
思いやりがなく、がさつな世俗的な言葉を言わないで、
どれだけ優しくあれるかなのです。
そうしてこそ、私たちは純粋性(清貧)を手に入れます。
愛とは「悪いことを考えない」ことなのです。
絶対的な純粋さとは、まったく悪を考えないことです。
たったひとかけらの悪い想いでさえも。
私たちの主イエス・キリスト様の存在とは、
なんという聖なる純粋性でしょうか、
さらに、なんと、まことに祝福された者でしょうか。
私たちは、心を尽くし、魂を尽くして、
日々、神である主を愛するように言われています。
これを行うには、純粋な方法で行動するだけでなく、
常に純粋な思考を持たなければなりません。
他者に対しては最高の動機で帰依なくてはなりません。
私たちのすべての考えは、神の意志に従って、
神聖で非利己的なものでなければなりません。
なんと素晴らしい理想でしょうか!
それから不変性(貞操)について述べられています。
「愛は決してしくじらない」
愛は決してあなたを失望させません。
本当にあなたを愛している人は、
あなたを失望させることはないでしょう。
ですから、私たちが誰かを愛しているなら、
決して彼らを失望させるべきではありません。
主の私たちへの愛は不変であり、
その愛は決してしくじりません。
主の愛は、今も変わらず、私たちと一緒です。
この愛こそ、私たちが完全に信頼できるただ一つのものです。
ですから真の愛は誠実で熱心なものであり、
不変で決してしくじらないことがお分かりになるでしょう。
最後の文章では、主の約束が与えられます。
まず、信仰を持たなければならないことを教えています。
私たちは信じなければならないのです。
次に希望を持たなければなりません。
私たちが信じた事柄が実現するように望むのです。
そうすれば約束が果たされるでしょう。
私たちの望みが完全に成就するという保証がここにあります。
「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、
その時には顔と顔とを合わせて見ることになります」
私たちのすべての疑念は晴れやかに無くなります。
理解できなかった全ての事柄が、明白に分かるようになります。
暗く閉ざしていた雲はすべて吹き払われます。
もはや神との間を隔てるものは何もなく、
明晰さと完全なる神との合一とがあるのみです。
その時「顔と顔とを合わせて見る」が成就されるのです。
そう、要約すると、
私がこの聖パウロによる「コリント人への第一の手紙」
の13節を愛読しているのは、
詩的に美しいとか、最後の韻文の栄えある約束だけではなく、
まるで主イエス・キリストの本質を、
完全な絵に写し描いたように感じるからです。
このポートレートには慈愛と愛情が織り込まれています。
この慈愛と愛の真髄こそ、私の言葉で語るのならば、
不変(貞節)と純粋性(純潔)そして優しさなのです。
主イエス・キリストに栄えあれ!
そして皆様に永遠の平安がありますように。
OM Shanti Shanti Shantih
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