スワミジの言葉 イエスの生涯 新連載 59 クリシュナナンダジの言葉  全文

 クリシュナナンダジの文章があまりにも難解すぎて

 

めちゃくちゃ時間がかかりました

 

特に後半の非二元論などの文章は 日本語にするのに物凄く時間がかかりました

 

どうやれば わかりやすい日本語になるか 試行錯誤しましたが

 

結果的に 余計わかりにくくなったかも知れません

 

申し訳ありません

 

脳に炎症が 起きてるんじゃないか くらい 知恵を絞りましたが

 

これが限界です

 

製本するときに もう少し追い込んでみます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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  イエスの人生は  秘蹟そのもの 

スワミ・クリシュナナンダ

エス様は超越的な光の証人として来られました。

聖なる人たちは、宇宙の最高神である父の命により、

人類を無知、過ち、罪から救い出し、

正義と幸福に輝いた人生へと導くために肉体を纏うのです。

聖人ツカラム(Saint Tukaram)はこうおっしゃいました。

「私たちはヴァイクンタ(天国)に住んでいますが、

人類を助けるために地に降りるのです」

(聖ツカラム:

16世紀のインドの詩人・歌人

人生で一番大切なことは、神であるクリシュナを、

いつも想い讃えることだと説きました。

最後には神の国から迎えが来て。

生きたまま昇天したと伝えられています。訳注)

 

 

この宇宙を支配する「全能の霊的な法(Law)」は、

世界に姿を現し顕現するときに、

無限の姿形をとることができます。

そのような姿形(神の化身 訳注)は、

永遠の光を証しするために顕現されるのです。

神の子、キリストの受難の生涯は、永遠の象徴である存在が、

その源である父を、どのように証ししたのかを示す、

素晴らしい手本と言えるでしょう。

聖人の受難には克己の苦行として、故意に自らに課したものと、

外の世界からの働きによるものがありますが、

いずれにせよ、その生涯には偉大なる意味が含まれています。

「天の父を愛するために、この世への愛をあきらめ、

神の子のために命を捨てる者は、まことに生きる者となります」

この言葉に含まれる完全な意味はこうです。

神の子、偉大なる聖人はこの世に来ますが、

幻惑である地上の慣習や規則に、慣れ親しみ従うことを拒否し、

この世とは正反対の流れの力、

理想的な人生である特質を肯定します。

それは、この世俗の世界に神の正義を実現するため、

そして超俗的な不滅の法を証しするためなのです。

世知辛いこの世界に死ぬことによって、

人間の理知を超えた平和の中で生きることができます。

 

 

主キリストは、天の父の命に従い、

父のご意志を果たすために地上に来られたと仰いました。

また、父の天国は私たちの内側に存在するとも仰いました。

この言葉が意味することとは、

すべての内にある、霊的な法が現れるために、

聖者の生涯そのものが捧げられた犠牲であるということです。

すべての人々の内にあるもの(法)とは、

天の父から受け継いだ人間性と、本質(アートマン 訳注)です。

人としての生涯とは、自分自身の起源である善意、

愛と知恵と真実を実証するためにあります。

ユニバーサル(宇宙的)な人生を生きるためには、

天の偉大な父の表現である正義を主張することが求められ、

すなわち正義を遂行することこそ、

多様性から成るこの世界を一つにする力なのです。

聖人の生涯とは秘蹟、聖なる行為、聖なる崇拝そのものです。

神の子である聖者にとって、苦しみは避けられないものです。

なぜなら、キリストの言われているように、

「神の子にはまくらする所がない」からです。

義なる者になり正義を行いたいという、

果てしない思いのみが彼を動かしています。

エス様の誕生から磔刑での死に至るまでの生涯は、

自我の完成への過程を描いた雄大な物語なのです。

 

 

神の実在の中で、

大宇宙は自己実現に向かって変化を続けていく。

それは進化の歴史の中に刻まれていく。

小宇宙である聖者の生涯での出来事も同じです。

万物は一つになろうとする力の中に存在し、

自我意識の中で自己を認識する弛まない努力をしています。

それゆえに生命のあらゆる段階は必要とされる瞬間なのです。

すべての人の人生は、過去から未来に至るまでの、

個人の全体的な進化の本質を示しており、

それらの経験が完徳へとつながるのです。

エス様、そして主クリシュナの生涯とは、

個人の意識と「気づき」が初歩的段階から無限なる神格に至り、

完全に開花するまでの体系的な変化の直接的な実例と言えます。

意識的にかつ計画的に行われる霊的な努力のプロセスを、

進化を完全に描いた劇として、一人の人生に要約できるのなら、

エスの生涯こそ、

進化のドラマを具体的に描写したものと言えるでしょう。

エス様がこの世にお生まれになった時、

分国王ヘロデはその命を狙っていました。

そのため両親は遠く国を離れて、

エス様を守らなければなりませんでした。

 

 

主がどのように成長したのかは謎に包まれています。

やがてイエス様は神聖な人生についての福音を教え始めました。

彼は人々から、幾たびも抗う、様々な誘惑を受け、

罪の汚名を着せられ、不当な裁きで判決を受けて、

そして十字架上で亡くなられたのです。

 

人の霊魂も同じ様に、

物質と精神の力により閉じ込められ、

世界から抗われているのですが、

そのことを理解することによって、

纏をつらぬいて現れ始めるのです。

現れた霊的な火花が完全に消えてしまわない様に、

私たちは守らなければなりません。

これがヨーガの実践における予備段階です。

時々、霊魂は「暗い夜」に見失われますが、

不思議なことに後になって「暗い夜」から、

本来の完全な尊厳と力を携えて姿を現します。

そうすると、全ての行いと経験に霊魂の法が確立され、

宇宙の力が現れ始めるのですが、

人智の理解を超えた彼の立ち振る舞いは対立をもたらすのです。

 

 

最高我(アートマン)と新たに一致した個々の魂は、

この世界の自然の力に逆らっていることを理解します。

激しい誘惑に会い、あらゆる方法で試され、

この世的な普通の生活には不向きだと宣告さえされます。

それは神の領域の意識と、この世の人の欲を、

同時に持ち生きることが不可能だということです。

最高神の意志に従うために欲望自身を捨て去り、

至福に満ちた「無限なる者」との和合のために、

個性すらも投げ捨て、

心変わりの元となる、死すべき乗り物(肉体)や、

神から引き離す情熱に死ぬことさえします。

 

偉大なる理想を探求する上で、

霊的志願者が道をあやまたないように、

キリストの教えは本質的な原則を示してくれます。

霊的生活で成功するための、要となる鍵は信仰です。

「多くの人が聖職者の袖に腕を通すだろうが、

その人たち全てが本当の教師とは限らない」

と、キリストは人々に警告しました。

このような偽りの教師たちを警戒し、

真の教師であるキリストに信頼を置かなければなりません。

 

 

信仰の力とは、キリストが教えたように、

からし種一粒の信仰があれば、山を動かすことができるのです。

食べ物や衣服への憂いが志願者にあってはなりません。

エスの教えはこうです。

「神の知恵は人に優り、神は人を守る知恵に長けている」

「休息と光と救いだけを求め彼(神)のもとへ来ることこそ、

人の義務なのです」

更にこうも語りました。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と

言う者がみな天の御国にはいるのではなく、

天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです」

口先だけの謙遜や献身ではなく、

無条件の全託による心からの誠実のみが、

人を神のもとへ連れてゆくのです。

公共の礼拝、路上での祈り、太鼓を叩くこと、

それが霊的な努力を意味しているのではありません。

沈黙のうちに犠牲をおこない、

唯一神との絶え間ない強い一致こそ霊的努力の目的です。

 

 

「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、

彼らは飽き足りるようになるであろう」

「悲しんでいる人たちは、さいわいである、

彼らは慰められるであろう」

「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、

天国は彼らのものである」

人が神のために自分の命を犠牲にする覚悟ができた時、

神はご自身の姿を彼の前に現わすでしょう。

 

神の信者の卓越した特徴とは、

彼の存在そのもの、その全てが、

まるで甘い香りのように影響を与えるということです。

「丘の上に築かれた街は隠れることはありません。

その街の光が世を照らすからです」

 

人の存在の中心を形成する霊的本質は、

彼が神と一つとなることで、いかなる努力も必要とせずに、

彼を通して調和し、その姿を現すのです。

 

 

太陽が昇り空に姿を現わすと、ただそれだけで、

見る者の五感を通じて、その存在が感じられます。

しかしながら、

梟が太陽を知らず、盲人が光を見ることがないように、

無知な者は、世のいける神殿である、聖人を通して輝く、

神なる霊の活動に気づくことは無いのです。

キリストと弟子たちの活動は、

終わりある個としての、思いの成就の過程としてではなく、

大宇宙の神の栄光を確立するという、

広大無辺な活動の一部として理解されるべきです。

 

内側の世界、宇宙の君主からの霊的な恵みであり、

外なる世界に目に見える徴として天より降ったもの、

それがキリストの生涯であり、真の秘蹟サクラメント)です。

尽きることの無い神の愛、彼は肉を纏い、

人類をこの愛の源へと贖うために、罪を背負い苦しまれました。

愛と犠牲は不死の門を開く鍵です。

 

 

祈りについて申し上げれば、

自身の苦痛からの救いは求めず、

神の法を知らないために、苦しむ人々の、

贖いのために祈ることこそ、

愛と犠牲という美徳を、人生で花開かせる真の姿です。

キリストが起こした奇跡は、主の全能の力を示していますが、

その力は救いを求める人々のためでした。

エス様の生涯をかけた使命とは、

人々の目を開き、地の埃の遥か上に輝く光を見せるだけでなく、

正義のために悪とサタンの誘惑に打ち勝ち、

まさにこの地上に天の王国の旗を掲げることだったのです。

この世での生活とは、

地の相対的法則と神の絶対的法則との融合です。

カエサルのものはカエサルに返しなさい。

神のものは神へ返しなさい」

ルカ福音書20章20~

 

 

霊的志願者が神と地上の王国の両方の法を理解して、

調和のうちに霊的な熱望を発達させることは、

この相対的な人生の中で、非本質を強調しすぎたり、

本質を無視することなどの誤りを防ぐために必要なのです。

人間とは、神と獣性が一点で交差しており、

彼の内にある神の力を知性に適用することで、

彼の内で活動している非神性の力、

獣性を超越しなければなりません。

 

キリストは素晴らしい現実主義者でしたから、

天にまします父のようになりなさいと、

優しさ、愛、奉仕、神への礼拝の重要性を強調したのです。

彼は偉大な理想主義者でしたから、

天の王国は人の内側に存在し、

「人を汚すのは外から入ってくるものではなく、

人の内から出てくるものである」と断言したのです。

この広大無辺な世界の単一性と有機的な性質は、

宇宙における人間の経験という理想的な性質が、

実存と総合されて顕現した無秩序と言えます。

神はその内に存在し、またその外にも存在します。

世界は私たちの内に存在し、また私たちの外にも存在します。

苦行と愛はどちらも私たちの責務です。

内なる力と外なる力という、平行する世界を統合することで、

世界の霊的な復興を成し遂げて、

この地上に神の王国を樹立できるのです。

キリストの教えによると

注意深い学徒は知恵と聖性、形而上学と倫理、

現実主義と理想主義、自我の放棄と自己表現、

知識とその対象を、最も驚異的で分かりやすい形で理解します。

神の人のみがそれができ、

キリストはそのような存在でした。

彼の人生は訓戒であり、彼の教義は神の言葉でした。

彼の教えを聴き、従うことによって、

永遠の幸福が約束されています。

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